電網郊外散歩道

音楽、読書、コンピュータ、農作業などの記録。ブログ移転によりリンクが切れている場合は検索ボックスで調べてみてください。

歴史技術科学

日本のノーベル賞受賞者の修行時代の年代分布

今年は、ノーベル賞に2人の日本人科学者が選ばれました。 ノーベル化学賞 北川進 氏(1951年生まれ) 金属有機構造体の開発 ノーベル生理学医学賞 坂口志文 氏(1951年生まれ) 末梢性免疫寛容に関する発見 2025年のノーベル賞受賞のニュース 山形新聞一面トップ…

山形県立博物館の講演会で加藤セチの生涯を聴く〜高等女学校にも理科実験室があった

山形県立博物館のプライム企画展で、「高等女学校と実科高等女学校〜青春の学びと生活〜」という展示をやっているそうです。そこで「理学博士加藤セチの生涯」という記念講演会が予告されていましたので、聴いてきました。「女性科学者のパイオニア 加藤セチ…

戦後の経済発展の基礎となった「品質管理」が成功した理由

終戦直後の日本経済は、さまざまな曲折を経て、とくに戦争特需もあって、徐々に復興を果たしますが、その際に多くの人に指摘されるのが「品質管理の概念と手法の導入」です。日本製品が「安かろう悪かろう」で悩んでいた時期である1950年に、日本政府が国勢…

1965〜67年頃の中学校科学部はどんな活動をしていたか

昭和40(1965)年に中学生となった筆者は、科学部に入部しました。大学に進み自然科学の研究者になるのが夢であったために、小学校にはなかった二つの理科実験室と準備室にはワクワクするような宝の山と感じました。交流100V を直流にする電源装置があり、電流…

戦後の新制中学校における実習室や実験室の整備

終戦直後の混乱期をなんとか通過した頃、ベビーブームによる子どもたちが大挙して学校に入学するようになります。昭和23年に発足して間もない新制中学校(*1)は、義務教育の受け皿として拡充整備することが求められますが、選択科目の英語だけでなく各科目を…

理研で主任研究員となった女性・加藤セチの業績のことなど

地元紙「山形新聞」では、山形県ゆかりの人物を取り上げる連載をずっと続けていますが、最近では先月の「加藤セチ」の記事をたいへん興味深く読みました。 山形県の庄内地方、三川町の資産家に生まれた加藤セチ(*1)は、県令三島通庸の勧めでアメリカ式の大農…

戦中期~終戦直後における旧制高校の実験室

戦中期の大学における実験室の様子を、いくつかの回想記をもとに探ってきましたが、大学以外の、他の学校ではどうだったのか。旧制六高の名物教授であった山岡望氏の伝記(*1)をもとに、旧制高等学校のエピソードをひろってみたいと思います。 山岡望氏は日本…

閑話休題:配属将校の評判

戦前・戦中期の実験室のようすを調べるために、様々な回想記を読んでいると、配属将校への不満やあてこすりが多いことに気づきます。理屈っぽい理系人間だけでなく、大正デモクラシーの雰囲気を持った文系の人たちも、どうやら配属将校に強烈な不満を感じた…

戦中期の実験室の様子を示唆するもの

太平洋戦争中、大学の研究室は様々な形で軍の体制に組み込まれ、悪い意味での「選択と集中」が強制されました。戦中期の実験室に関する記録を目にすることが少ない理由には、一つには学徒動員などで学生が減少していたこと、また促成教育や勤労動員の補習教…

小学校に理科実験室ができ始めた時期

1980年代頃でしょうか、日本の学校教育を視察に訪れた視察団が驚いたことの一つに、「小学校にも理科実験室が整備されている」ことが挙げられていました。たしかに、中学校や高校以上では、諸外国、とくに先進諸国では物理・化学や生物などの実験室と準備室…

東北帝大を卒業した黒田チカのその後と理研

帝国大学初の女子学生となった三人の一人、黒田チカの生涯は、「黒田チカ 理研」などで検索すると、理化学研究所の広報ページに、YouTube に登録された短編映画にリンクされており、探すことができます。ここでは、黒田チカの生涯と業績、生前の声、考え方な…

帝国大学に入学した女性たち

世間の注目を浴びながら、初めて帝国大学に入学した三人の女性たちは、それぞれどのような経歴であったのかを調べると、当時の女性の高等教育の状況が見えてきます。 黒田チカ(*1)は、1884(明治17)年に九州の佐賀に生まれました。理解ある父のもとで育ち、17…

帝国大学に初めて女子が受験、入学する

1907(明治40)年、分析化学の講義という職務のかたわらバイヤーやフィッシャーの論文を読破し、漆の有機化学を志していた東京帝国大学の眞島利行助教授でしたが、留学するにあたって上司の桜井錠二教授が命じたのは「無機化学の研究」でした。そのために、最…

明治~大正期の日本の化学研究の状況~紹介から自立へ

日本化学会が創立百周年を機にまとめた新書判の小冊子『日本の化学 100年のあゆみ』(日本化学会編・井本稔著)に、興味深いデータが掲載されています。それは、明治13年から44年までの東京化学会誌と興行化学雑誌に掲載された報文数の推移のグラフ(p.54、図2)…

高等教育に注目するだけで良いのか

明治維新の後、学校教育は小学校と師範学校を重点にして開始されました。この点、少数のエリートに高度な専門的教育を施すのではなく、小学校からスタートし、師範学校で核となる教師養成を行うという行き方をとったことになります。これは、身分制の撤廃と…

文明開化とは言うものの~技術が支持され普及する理由

開国と明治維新によって、国策として導入し始めた西欧の科学技術は、明治の日本社会に無条件に受け入れられたわけではありませんでした。好奇心から新しいものに手を出しても、現実に適合しなければ、やがて捨てられるのが世の常です。例えば明治期の繊維産…

明治期の中学校と理科実験室

明治時代、小学校の就学率はしだいに上昇していきました。改正教育令で事実上の受益者負担主義となり、53%まで向上していた就学率が40%台まで低下するという足踏みの時期はありましたが、明治21年に設置者負担に変わると、就学率は回復し、再び向上してい…

明治初期の硫酸製造と大阪造幣局

山形師範学校の付属小学校における天覧実験(*1)は無事に終えたものの、明治初期の初等教育において、リービッヒ流の「実験を通じて学ぶ化学」が行われていたわけではありません。各地に建てられた小学校には、一斉教授用の教場(教室)はあっても、生徒用の理…

明治天皇の東北巡幸と山形師範学校における化学の天覧実験の記録

明治初期の翻訳教科書『小学化学書』は出版されましたが、明治初期の日本で、大学以外の学校ではどのような教育が行われていたのか。これを推測するうえで、明治14年の山形師範学校の天覧実験の記録が、興味深いものです。 明治14年、明治天皇は、二度目の東…

明治初期の化学教科書の著者と翻訳者

明治初期に発行され、初等中等教育において広く用いられた教科書として、ロスコウ著『小学化学書』があります。この本の実物は、山形県内では県立博物館の教育資料館(*1)で見ることができますが、1872(明治5)年に発行された原著"Chemistry"(Science Primers-…

帝国大学の整備と教育の目的の変化

明治初期には、お雇い外国人教師を中心に様々な学校で行われていた高等教育でしたが、国費留学生が帰朝し、教授に就任するなどして、徐々に日本人教員に置き換えられていき、高給で雇われた外国人教師たちも、少しずつ帰国していきます。 工部大学校の都検(…

明治初期の留学生の行先

文部科学省の「学制百年史」(*1)によれば、維新後に海外への留学生は急増し、留学生の選抜や規律等について、必ずしも良好とは言えなかったようです。そこで、政府は、明治3(1870)年に留学生をすべて文部省の管轄と定め、官選と私願の2区分に分けて試験で選…

明治初期の学生たちの大半は士族だった

明治初期に、お雇い外国人教師たちに師事した日本人学生は、どういう人たちであったのか。これは、圧倒的に士族が中心でした(*1)。廃藩置県の前は、各藩に貢進生と称して若く有能な青年たちを送り出すように命じますが、やがて廃藩置県によってこの制度も途…

明治初期における科学・技術に関する専門的教育の状況

ここまで、開成学校と工部大学校を中心に、リービッヒ流の化学研究と教育のスタイルがどのように日本に伝えられたかを見てきました。この際ですので、明治初期の日本国内における科学・技術に関する専門的教育の状況を整理してみたいと思います。 明治維新の…

お雇い外国人教師の活動

来日したお雇い外国人教師たちは、不案内な東洋の島国の、風俗や習慣もまるで異なる東京の町で、サムライ青年たちが中心となる若者たちに、それぞれの教育を始めます。 福井で実験室を作り化学教育を行っていたグリフィスは、廃藩置県で職を失い、東京に出て…

お雇い外国人教師たちの人選と推薦

明治維新にともなう内乱を経て、ようやく近代的な国づくりに着手した明治政府は、学校制度をととのえるとともに、近代化の担い手となる人材を育成すべく、外国人教師を招聘することを決定します。でも、偉そうに「決定」するにしても、誰を招聘するかについ…

明治維新と近代化を担う人材の養成

英語では、明治維新を何というのか調べてみると、"the Meiji Restoration" というのだそうです。revolution ではなく restoration ということは、権力の所在がどこに移ったかに注目した、返還・修復・復元といったイメージなのでしょう。たしかに、1867年の…

ウィリアムソン教授と密航留学生たちの関わりは薩摩藩にも

明治の日本に話題を移す前に、犬塚孝明著『密航留学生の明治維新』をもとに、ウィリアムソン教授と密航留学生たちの関わりの深さを、もう少し紹介しておきましょう。 長州藩からは、最初の五人の他にも、高杉晋作に鼓舞されて南貞助と山崎小三郎が渡英してき…

長州藩の密航留学生は何を学んだか

犬塚孝明著『密航留学生たちの明治維新』(*1)によれば、「長州藩の五人の留学生を一緒に住まわせるには、プロヴォスト街の博士の家はあまりにも手狭であった」ために、「マセソンは井上と山尾の二人を、カレッジのすぐ前のガワー街103番地のクーパー邸に…

長州藩の密航留学生が暮らしはじめた環境

長州藩から英国へ密航留学して来た五人のサムライ青年たちの世話役となったヒュー・マセソンの証言(*1)によれば、 私は彼らにふさわしい処に下宿させ、教育への準備に取りかかった。極めて幸運なことに、ユニヴァーシティ・カレッジの化学教授で、のちに英国…